ペトリコール - forget me not -

雨上がりの匂いと勿忘草

わたしたちはいつでもハッピーエンドを待ってるの

誰もが羨む君が好きだ

今 目が合った気がする
一人で踊るの?Lady
鮮やかなワンピース
跳ね続けるピンヒール

 

ピンヒールで跳ね続けるとかクスリでもキメてないと無理やん、って思いながらクラブの音楽イベントにはスニーカーで行く私。


久しぶりにした靴課金、ちょっとヒールだし丈が足太く見えるので合わせ辛さもあるけどワイドパンツ と相性良すぎてバカみたいにヘビロテしてる。


誰もが羨む君を自分のものにしているという、一種の承認欲求を満たすものが感情を加速させるのは一理ある、とこの曲を聴くと思う。


沿線的に毎日のように渋谷を通る。
職場が渋谷だった頃も含めると、わたしが東京で1番長い時間を過ごしているのは渋谷。

若者の街、騒がしい街というイメージはあるけど、なんでもうまく溶け込ませてしまう渋谷がわたしはすき。


やっと行けたPARCOもカルチャー感強くてすごくよかった。


2019年がもう終わる。
どんな1年だったか、というと、相変わらず何にもない1年だった、一般的には。


仕事で成功をおさめたわけでも、結婚や出産といった人生を変える出来事があったわけでも、涙無しでは語れないような悲しいことがあったわけでもない。


そんな大きく良くも悪くもない1年が1番自分らしいと思う。その中でいろんな感情の動きには恵まれて、結構好きな1年。


30歳になったからといって
特に何が変わるでもなく
相変わらずすきなものはすき。


1番嬉しかったのは大好きなアーティスト、レーベルのライブレポートを書けたことだ、仕事として。

自分の人生を好きでいさせてくれるものとの出会いを、自分ではつくれないから窓口になれれば嬉しい、とぼんやり思い描いていた10年前の自分に、10年もかかってるけど叶うよ、と教えてあげたい。


すきな音楽のジャンルが少し変わって
周りの環境も少し変わった。


気づかないうちに自分が変わってるところはあるだろうか。それを知りたいなあ、と最近思う。


さて、原稿の締め切りラッシュ、残り7本といつもの配信系。どうにもテンションが上がらず昨日はまるっとだらけてしまったから、挽回していきますかねぇ。

少しばかにでもなった方が色々スムーズ

有名な曲かけてよDJ
一緒に踊れないと悲しいじゃないか
簡単な言葉話してよbaby
通じ合わなきゃ寂しいじゃないか

何枚も何枚も
向こう側は映らないなんて防壁みたいね。


8月くらいに忙しすぎてちょっとガリったときと同じくらい忙しいのに、全然痩せないから冬って怖い。

忙しいというか、謎にずらせない予定もあって時間取られちゃうんだよな。時間が大事だからこそリスケしたくなくて無理しちゃって、なに食べてたか何時に寝てたかも分からなくなって、諦めて少し長風呂して昼まで寝たら少し回復した。


人間らしい生活というのは本当に大事。


悲しいことしか待ってないどうしようもできない将来は、考えてる時間が可哀想だから少し馬鹿になる。

成績も態度もいたって普通で特出した何かを持たない学生時代が少しコンプレックスだった。誰の記憶にも残れないなあ、と。

だからといって悪目立ちする度胸なんてなく、カリスマ性もなく、ただ開き直った大人になったけど、開き直るって大事なことだなと思った。


通り過ぎていく人ばかりだけれど
立ち止まってくれる人が皆無ではないなら
それで十分かなあ、自分の人生なんて、と思っている。


一緒に踊りたい
通じ合いたい

そんな可愛い曲を聴きながら
今日はちょっと久々の音楽まみれの夜。

完全にこれは備忘録なので
気が変わったら消すかもしれないし、記録だから、と開き直って残しておくかもしれない。


傷つけないための嘘は必要とか
聞かれないから言わないとか

わたしもそっちタイプだけど

悲しいよな、わたしはなんでも言ってるのにな、って。いやなんでもは言ってないかもしれないけど。


熱量の多さや体温の違いをわかってほしい、と友達に説教したのに、自分がそれに悲しんでるんだから笑い話だ。


優しい嘘ならいらないってMISIAが歌ってたけど、ほんとそうだよな。
泣いて喚いてぶちまけてしまえば楽なんだろう、悲しいことに気を紛らわしたくても外せない仕事があってしばらくは身動きもできない。


悲しいって自分のエゴなんだけど


悲しい、それでも悲しい。

泣き喚きたいっていう今の熱は
きっと少ししたら冷めてしまうから
いまできないと意味がないのに

ポリアモリーシンドローム

ポリアモリーという造語があるんだけど、わたしはもしやそれなのかなあ、と思ったりする。

たまにメンヘラったりはするものの、誰か1人に依存することがあまりなく(意識的にしないようにしてる説はある)、もちろん一瞬パートナーと呼べる人がいたときは自ら進んで誰かに声をかけることなんてしないけれど、あの人も好きだしこの人も好き、という思いがどこかにある。


それは異性としてというか人としてで、たまたまそれが異性だとオプションついちゃうことも無きにしもあらず、という話なのだけど。


こんなもん言おうもんならはちゃめちゃにバッシングをくらいそうだが、現状わたしは誰とも付き合ってないし、もちろん法的な約束も紙切れの入籍もしていない。

だからというわけではないがとりあえず大目に見ておいて欲しい。


ポリアモリーはいわゆる一夫多妻制の恋愛バージョンみたいなもので、浮気や不倫と違うのはその関係性を隠さず、なんなら合意や理解があるということ。わたしの場合さすがに隠さない程度だけれど。

言葉がなかったので自分のことをバグだと言っていたけれど、多分分類するならこのポリアモリーに近い。


なんでこんなこと考えてるかって、朝っぱらから恋愛体温高めのグループラインがうるせぇなあって思ったからなんだけど。
  

それから好きなアーティストさんのmusicvideoに小悪魔な女の子が出ていて、コメ欄がなかなかに嫌悪感を隠さないコメントで賑わっていた。


雨で頭痛いからこれにめちゃくちゃイラッときたんだけど、世間一般で倫理的に良いとされてはいるかもしれないし日本は民主主義の国だけど、表現とかライフスタイル(恋愛もここに分類する)は自由でいいし、それに嫌悪感を抱く人がいることは事実だし、倫理的にどうとか言われたら「そうですね」となるけれど、否定したり攻撃したりするのは違うだろ、と。


傷つく人がいる!とか言われても、いやわたしいまあなたに傷つけられてますやん、ってなるわけよね。

性格とか考え方とか物事への体温は人それぞれだし、それをわかってほしいとも理解しろとも言ってないのになんでそんな否定されなきゃいかんのよ、と。

自分以外の人間は宇宙人だと思うくらいでいい。100理解しあえるなんて無理な話、100の中で分かり合える部分が多い人は居心地が良くて、分かり合えない人は人で否定し合わなければ面白いのに、なんでこう自分の考えが正義で正しいと思って色々もの言う人が多いんだろう。


正義なんて主観だし
正しいかどうかなんて誰が正解用意してんだよってなるし、あーもう面倒くさいなー、なんて思って備忘録的に殴り書きメモをしている。


わたしのことは放っておいて勝手に幸せになってくれ、そこにわたしの幸せがあるかどうかの判断はわたさがするから巻き込まないでくれ。

ice cream talk

真夜中3時 西麻布のホブソンズ2階窓際
子供の頃の特別だった
いまは気軽に来られるでしょ

孤独という名の靴は
履き慣れたら
どこまでもいける自由の靴

自由の靴をわたしは何足持っているだろう。
そのうちの8割はベーシックなスニーカーだ。
なんだかんだと使い勝手的にこのVANSをよく履いている。ちょっと背伸びしてproを買ったのは正解だった、とヘビロテしているいまなら思う。



悔しい気持ちも悲しい気持ちもとかしてしまおう、と歌うice cream talkという曲🍨
自由の靴をそうだと気付かず履き潰していた自分にとてもぴったりな曲だと思った。



気温の変化が激しすぎて、わたしのメンタルもメンヘラ状態だった。まるっとなんの用事も無い日を週に1度は作りたいのに、謎にノンストップで外出が続き、風邪もあって強制的に3日間ほど一歩も家から出ない時間を過ごした。もちろん一言も言葉を発さない。


引きこもり明けの電車はつらい。

人酔いするし、エネルギーが不足しているから貧血も起こす。仕事に行ってもうまいこと口が回らず、それゆえなんだか仕事も回らない。


心のブレーカーが落ちてしまった時は、自然と上がるまで落としたままにするしか解決法がない。

でもおかげで、コンシーラーでも隠れなかった肌荒れが少し落ち着いて、乱れすぎた食生活も少しはマシになってくれた。


書きたいことはたくさんあるのに
書けないままで溜まってしまって
結局どこにも発信されないまま
どこにいくのかなあ、あの子たちは。

わたしは自分の感情を「あの子」とか「この子」と呼ぶ癖があるらしい。

自分の中に何人もいろんな子が同居してるのだ。でも多重人格でもなんでもなく、その子たちそれぞれが独立していて、そして大元のわたしが分身たちをコントロールしている。

この感覚っていいのか悪いのか分からない。

いつだって自分は自分なのだけど、
自分という個人をまた別の自分が見ているわけだから、物事を自分ごと化するのがとても苦手だ。


友達の高校の同級生、という、なかなかに不思議な仲の知人が出ている舞台の音楽を、わたしの好きなアーティストさんが手がけているというのでお邪魔した。


いわゆる西部劇なのだけど、ジャジーポップな感じだったり繊細なピアノだったりで、舞台音楽というものに集中して観劇したのは初めてだったけど、面白いものだなあ。


違う人間になるというのはどんな気分だろう。ものすごく体力がいるだろう。役者さんの熱量というものはとてつもない。

それを伝えると「それに人生かけてる人たちだからね」という返事がサラッとあって、

社会的地位とか経済的余裕というものに蓋をしてしまえば、なんとかっこいい人たちだろうか、としみじみ思った。もちろん蓋なんてしなくてもそうなのだけど、生活ができなきゃ芝居なんてできないし、わたしだって生活のためにものを書いている。


決してうまく交わらない社会的な自分と理想の自分。そんな葛藤をお酒で忘れることは、彼らにもあるんだろうかなあ。

thanks for comming! see you.