ペトリコール - forget me not -

雨上がりの匂いと勿忘草

わたしたちはいつでもハッピーエンドを待ってるの

朝方のバスタブ

久しぶりにちょっとパニック状態なので、

誤字も脱字も、めちゃくちゃな「てにをは」も、気持ち悪い自分語りも、バラバラな一人称も、何も気にしないで書き殴ります。

 

まるでアンネの日記のよう。

紙は辛抱強い、それはウェブになっても同じことみたい。

 

秘密の話も毎日の瑣末なことも、ぜんぶぜんぶここに吐き出してしまっても、取りこぼすことなく受け止めてくれる。

 

 

今のわたしは、うまく言葉にできない感情の坩堝だ。溢(あふ)れる、溢(こぼ)れる。 

 

今にも泣き叫んでしまいそうな状態でも、

坩堝(るつぼ)という言葉の遣い方が正しいのか自信がなくて、わざわざ調べるくらい言葉に真摯に向き合う自分が嫌いで好きだ。

 

それだけ正しく、伝わってほしかったり

それだけ正しく、記録しておきたかったりするのだ。

 

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映画を観て涙が流れることはあったし、

 

10代の頃に聴いた音楽は、今でも聴くと当時を思い出してはこそばゆい感覚になるし、

 

基本的に冷静でテンションが低空飛行な自分ではあっても、表現力は無くとも感情が薄いわけでは決してないと思っている。

 

繊細だとは思わなし

図太いとも鈍いとも思わない。

 

些細なことに傷付くことだってあるし

知らないうちに大事な人を傷付けていることだってあるだろう。

 

 

涙を流したり

傷ついたり

傷つけたり

笑ったり

怒ったり 

 

することはあるけれど

 

「泣く」という行為を

ここ何年していないか分からなかった。

考えたことがなかった。

 

 

最後に泣いたのがいつか分からない。

 

ここでいう「泣く」ということは

「わけも分からず泣きじゃくる」という意味で

 

※わけも分からずを、訳も分からず、もしくは理由も分からず、と書かずに平仮名で表現しているのは、「わけ」に「訳」も「理由」も入っているからだ。

 

 

結婚式での感動の涙とか

そういう部類のやつは含まない。

 

そういう意味で最後に「泣いた」のは、

いつのことだったか覚えていない。

 

 

泣きたいのに泣けなくて

つらくてつらくてしんどかった記憶があるのは

24歳のときのことだ。

 

泣いてしまえたら楽なのに

泣きたいのに

なんで泣けないのか、と

眠れない夜を1人過ごしたあの日のことだ。

 

それ以前で、なんとなく覚えているのは19歳かハタチくらいのときではないかと思う。

 

大好きな大切な特別な人を

今まさに失うかもしれない、それくらい傷つけてしまった、あの日のこと。

 

 

ハタチだとしたら、かれこれ8年の間

私は泣くことをしてこなかった。

 

 

なんて不健康なんだ。

 

泣くことはデトックスと一緒だと思っていて、

特に、今わたしを苦しめている言葉にできない感情とやらは、涙にして出すのが1番なのだ。

 

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そう、こういうこと。

 

 

それを8年もしてこなかった。

きっとわたしの体は毒素だらけだったことだろう。重たい重たい体だった。

 

 

それが今日、突然壊れた。

 

 

声を上げて泣いて

自分でもびっくりするほどに泣きじゃくった。

 

泣き疲れてそのまま眠った。

 

 

最近の私は確かにおかしかった。

 

ずっとシティーポップやブラックミュージック、オルタナロックを聴いていたのに

 

急にsalyuの「name」という曲の歌詞が頭をもたげたりしたのだ。

 

“早く 早く 早く名前を

呼んで 呼んで 仲良くしてたいよ

どうして目覚めて涙が出ちゃうくらい

好きになってしまったの あなたを

name うわごとのような響き”

 

 

名前を呼ばれたいと思うことは少ない。

 

正確にいうと、

名前を呼ばれることは好きだ。

人が言われて1番嬉しい言葉は名前だという説があって、それに賛同できるくらいには好きだ。

 

でもそれは日常においてであって、

 

ここで言う「名前を呼んでほしい」は

「愛していると言って欲しい」ということだ。

 

人生で2度、「名前を呼んで」と懇願したことがある。

それは2度とも特別な人と抱き合っている最中のことだ。

 

わたしがここで言う「名前を呼んで」は

「愛していると言って」ということなのだ。

 

 

愛しているという言葉を言われるのは好きではない。

「愛してるよ」よりも「大好き」の方が君らしいんじゃない?って宇多田ヒカルも歌っていたし、これにも賛同している。

 

名前がいいのだ。

愛してるなんて嘘でも言える言葉じゃなくて

嘘のつけない名前を呼んで欲しいのだ。

 

 

その人のことを愛しているのかは分からないし、その人もわたしを愛しているのかは分からないけれど、

ただそのときだけは、

その瞬間だけは、

わたしのことを愛して、と思ったのだろう。

 

 

そしてとにかく眠れない日が多かった。

体は疲れているし、心も疲れていたと思うし、

でも愛されたいと思ってしまったりもしたし、

心と体が疲れに疲れているのは感じていた。

 

追いつけなかった。

 

今自分の身に何が起きているのか

分からなくて、身動きが取れなかった。

 

 

今日泣きじゃくってしまったのは

おかしくなってから初めて非日常な1日を過ごしたからなのかもしれない。

 

ただほんのちょっとの遠方に足を延ばしただけなのだけれども、キャパオーバーになったのかもしれない。

 

 

眠れなくて困っているわたしが

いつ眠ってしたのか分からないくらいに

疲れ果ててしまうまで泣いて

 

目が覚めた今も

泣きじゃくってしまいそうで

 

誰かと話したくて

誰かの声が聞きたくて

でもこんな早朝(そのときの時刻は朝6時前)に誰に電話をしていいのか分からなくて、

電話をしたところで何を話していいのか分からなくて、

 

 

とりあえずバスタブにお湯を張った。

 

バスタブにお湯を張るなんて洒落た言い回しをしているのには理由がある。

これも自分がおかしいと思った理由のひとつで、昔の愛読書を読み返したことだ。

 

冷静と情熱の間。

日本とイタリアの想い他人(びと)たちの話。

 

 

そもそも最近は前しか見ていなかったのだ。

音楽にしろ映画にしろなんにしろ

最新のカルチャーにアンテナを張っていたのに

 

急にsalyuの昔の歌が頭をもたげたり

昔の、19年前の本を読み返そうと思ったり

 

過去に通り過ぎてきた事象や物事を

もう一度吸収しようというときは

ロクなことが起こらないのだ。

 

 

なぜなら、確実に自分が必要としているものを摂取しようとしているから。

 

これを聴けば

これを読めば

こういう気持ちになれる、こういう言葉を紡げる。

 

つまり栄養失調状態になっていて、

確実にどの要素か分かるもので、それを補おうとしているわけだから

 

心神喪失状態だ、と

体が、心が、SOSを出しているということになる。

 

 

その心神喪失状態が遂に爆発してしまって

泣きじゃくって、でも足りなくて、

そう、今バスタブにお湯を張ってこれを書いている、もうかれこれ2時間近く。

 

 

冷静と情熱の間 rosso の主人公であるあおいは

とにかくお風呂によく入る。

 

夕方のお風呂は、きちんとした社会生活を送っていない自分にぴったりだ、と

好き好んで何度もお風呂に入る女性だ。

 

同居している恋人と喧嘩になったとき

君はまたバスタブに逃げ込む、と

その恋人に指摘されるシーンがあって

 

なんとなくわたしも逃げたくなって

バスタブにお湯を張ったのだ。

 

 

お湯に浸かると少し気持ちが落ち着いた。

 

わたしは基本的にシャワーばかりの人間だから長湯できなくて、お湯に浸かったり、浴槽の隅にすわったりを繰り返しているだけなのだけど。

 

そう、夕方ではなく朝のバスタブで

わたしは泣く代わりにこれを書いている。

 

 

電話をかける相手がいないことも辛かった。

思い浮かんだ人は2人居て、

2人ともこのブログを知っている人なのだけど

 

できなかった。

 

なぜか?

 

未だに中学時代のトラウマが残っているのだな、と実感したのだけれども

 

わたしはとにかく人の顔色に敏感なのだ。

 

自由気ままで興味があることにしか動かない怠け者でらあるけれども、自分の意見を押し倒したり、なんなら意見を述べることすらあまり無い。

 

誰かを我慢させてまで

自分の意見を通したくないのだ。

 

意志薄弱だと思うか?

思えばいい、それでわたしは自衛しているのだから。

 

中学の頃、初めて友達と喧嘩という喧嘩をした。

 

キッカケは共通の友達に「あの子、裏で悪口言ってたよ」といわれただけの、今思えば些細なことなのだけど、

 

わたしにとってそれは初めて向けられた敵意で、どうしていいか分からなくて、

でもわたしはその子に直接話をしたのだ。

 

 

色々話して解決して、

これからはもっともっと心を開こう、と

そう決めてその子に長い長い手紙を書いた。

 

 

そしたらその手紙の内容を

その子は他の子に宛てた手紙でバカにしていた。たまたま見えてしまったのだけど。

 

 

そこからわたしはかなり閉じこもった気がする。学校には行ってたし、知らぬ顔でその子と一緒に過ごしたりはしていたけれど、

 

 

とにかく人に心を開かなくなった。

裏切られる、なんて言うと大仰だけど、

もうあんな悲しい思いはしたくないから

本音も弱音もあまり吐かなくなった。

 

 

人嫌いだと思っていた。

でも大学に入ってとそれは続いたけれど、

大学最後の誕生日に貰った手紙に

「最近自分のことを話してくれるようになって嬉しい」と書かれてあった。

 

人生において、自分に影響を与えた言葉はいくつもあるけれど、この言葉ほどわたしを救った言葉は無いと思う。

 

 

許された気になった。

 

自分のことを話していいのだ、と。

それを嬉しく思ってくれる人が居るのだ、と。

 

それでも、毎日の瑣末なことを話すことは苦にならないけれど、今でも自分の話をするのは苦手だ。

 

特に、こんなわけもわからない感情に悩まされて苦しんでいるとき。

 

なにをどうやっても楽しい面白い話にならないから、聞く人を不快な思いにさせるのではないか、不快な思いをさせたら、また距離を取られるのか、

 

そう思うと何もできなくなった。

 

もちろん時間帯が非常識ということもあったけど。

 

だからとりあえず無茶苦茶で支離滅裂でもいいから書いた。

 

この気持ちが風化しないように。

こう思っていたの、だから話がしたかったの、と言えるように。

 

のぼせてしまうからそろそろ出よう。

もう少しだけ寝よう。

 

原稿用紙11枚分にもなってしまった。

 

まだ泣きたい。

でもさっきのようにうまく泣けない気がする。

 

夢の中でなら泣けるだろうか。

 

バスタブのお湯を戻したら、

しばし目を閉じてみよう。

 

 

 

 

thanks for comming! see you.