ペトリコール - forget me not -

雨上がりの匂いと勿忘草

わたしたちはいつでもハッピーエンドを待ってるの

緑色のマニキュアとピンクのアイシャドウ

実はあんまり知らない岡本太郎の展示を観に行こうとしたら当日チケットが買えずに、でも神田まで足を伸ばす予定があるこの日、どうせなら何か観たいと思ってピカソを観に行った。

行ってよかった。とても心躍る絵に会えた。

金策に困っているにも関わらず、前回Man Rayの作品を買えずに高い送料を払って北海道から絵を取り寄せた反省を活かして、額縁に入った一番小さなサイズの絵を買った。

なんて可愛らしい。

女性がモデルになっているものに心が惹かれるというよりは、画家という繊細で大胆でおよそ自分とはかけ離れた才能と苦しみを抱えるアーティストが「作品にしたい」と思うような女性には、いったいどんな魅力があるんだろうか、という興味本位と憧れで心惹かれている。

『緑色の爪のドラ・マール』がこの絵のタイトル。

ドラ・マールはフランスの写真家、詩人、画家で、パブロ・ピカソの愛人。

ピカソの代表作、『泣く女』のモデルでもある。

アートのキャリアをスタートさせたのはマン・レイの助手として、らしく、運命的な何かを感じないこともない。

ミューズにはどんな共通点があるのだろうか。

ピカソに見捨てられてからは情緒不安定になっというマール。別れてからはカトリック教会に入り、ピカソの作品に囲まれたまま、貧困のうちに生涯を終えたそうだ。

才能ある愛する男が自分の作品を残していたら、そりゃあ死ぬまで忘れられるわけもなかろう。

ドラ・マールは感情的な女性で、すぐにシクシクと泣く人だったらしい。

「私にとってドラはいつも『泣いている女』でした。数年間私は彼女の苦しむ姿を描きました。サディズムではなく、喜んで描いているわけでもなく。ただ私自身に強制されたビジョンに従って描いているだけです。それは深い現実であり、表面的なものではありませんでした」とは何かに載っていたピカソの言葉だそうだ。
 
緑とピンクは補色関係にあって、補色同士の色の組み合わせは、互いの色を引き立て合う相乗効果(補色調和)がある。

シンプルにそんな色使いに惹かれたということもある。

いつぞやバスキアの絵を観た時も、鮮やかな青と黄色の補色の美しさに惹かれた記憶がある。

絵に限ったことではないけど、わたしの視覚から動く心のなんと軽いことよ。

098 異国の街

6年か7年ぶりに沖縄県にきている。

前回は大学時代にたくさん同じ町で同じ時間を過ごしてくれた友人の結婚式。

当時はスタートアップの広報仕事をしていて、旅先でも得意げにPCをカタカタしていた。

あのときは仕事がただただ楽しかった。知らないものが毎日溢れていたから。

このときはまだ25歳か26歳くらいだった。

高校の修学旅行以来だった飛行機に、ドキドキして何も分からずただ友人について行ったことを覚えている。

レンタカーの運転はとても楽しかったことも。

32歳のわたしは1人で飛行機に乗ることに緊張することもなくなって、相変わらず気圧で耳がおかしいことになるけれどもそれも少し慣れた。

1人でホテルを取り、朝早く目覚めたから近くの喫茶店にモーニングにも行ってみる。


東京に来てから多くの時間を共にして、ビールやコーヒーの美味しさを教えてくれて、そういえば北海道や仙台、静岡と、出不精で旅行が得意ではないわたしとよく遠出もしてくれる。

そんなとても大切な友人の結婚式。


2人を見ていると、これまでわたしが少し聞き齧っただけの、でもとても悲しくて辛くてしんどかったこれまでのことが込み上げてきて、ついうっかり涙腺がゆるんでしまった。

このことは、当人に感謝の気持ちと共に改めて伝えることにしようかな。

お風呂とトイレとベッドがあればそれでいい、そんなわたしはいつも安いビジネスホテルかサウナのあるキャビンに泊まる。

今回は結婚式にかこつけて、これまでも、恐らくこれからも泊まることのないであろう高級ホテルに宿泊をさせてもらっている。

ふわふわのスリッパに質のいいアメニティ。優雅なお風呂に景観の良さ。こんなにも違うのか、とまた一つ新しいことを教えてもらった。


今回は結婚式と前夜祭と称した前日のご飯以外は1人行動。
街を歩くときはAwichを聴いている。


沖縄で聴く、沖縄を代表すアーティストの音楽は、東京で聴くそれよりも余程身体に沁みてくる。

市外局番098。

明日の夜まで、しばし、お暇。

最後はみんな踊って、って

ニーチェなんて読んだことないけれど、どうやら彼が言いたかった結論は「踊る」ということだったらしい。

意味を問わずに、心と体を動かすこと。

何かを成し遂げることに意義があるのではなく、踊ること自体に意味を見出す。踊ることが生きること。


実際生きるにはお金を稼がなきゃいけないのだけど、哲学でいうところの「生きる」ということは、思考ではなく動くことらしい。


森山未來がダンスにのめりこんで今やようわからん表現者になっていってるのはこういうことなんだろうか。

役者の田中泯さんも踊りと農業で生きてるんだよな。


それでいうといい歳こいてライブやフェスやクラブのイベントに行きたいわたしは健全なのかもしれない。

音楽が好きなのは少し不健康だと思うのだけれど、確かに音にまみれて踊っているときは何にも考えていなくて、リズムだけ刻んでただただ動く物体と化している。

それもひとつの生きること、なんだろうか。


音楽が好きであることを不健康だと思うのは、たぶん厨二病だったからもある。

ただ、駆け込み寺が友人や家族ではなく音楽や本だったというのは、あまり健全ではない気もする。

小学生くらいの頃にやっていたトーク番組に『恋のから騒ぎ』というものがある。

わたしは10期だか12期だか、とにかくとある期のそれしか記憶にないのだけど。

エピソードトークの前に偉人が残した名言的なものが紹介されて、それが好きだったのだ。

古今東西、女は強かである旨の名言が多かった。

わたしが唯一覚えている期のメンバーに、ジャスミンと呼ばれる女性がいた。

ジアンビューティーという言葉がぴったりの女性で、特別美人な顔立ちではないのにやたらと美しく見えた。


たまたまYouTubeにアップされている動画があり20年ぶりくらいに見たのだけど、とにかく髪の毛がきれいだった。

サラサラでまとまりのある艶やかな黒髪。そして言葉遣いや話し方、所作に品があった。

当時の彼女は東大の大学院かどこかで心理学だか哲学だかを学んでいて、そこでニーチェの話も出てきたのだ。

将来ダンサーになりたいと語るジャスミンが「ニーチェも言ってんのよ、最後はみんな踊って、って」と話していたのが強烈に記憶に残った。

本を読みすぎてある日字が踊りだした、と言っていたけど、あながち嘘じゃないんだろうな。

踊ることが生きること、と、いつか悟る日がくるのだろうか。

紫外線を嫌っていたら夏が終わった。

踊る機会は訪れるだろうか。

愛される欲もないんだから

愛される欲もないんだから
ねぇ 寄って寄って寄って

前回のわたしを見返すと、表は何にも入っていないまっさらな身体だった。

3ヶ月しか経っていないのだけど、見えるところにタトゥーが3つ増えた。

今までモチーフがあったものに対して
増えた3つは好きなアートを入れた。

好きなもので埋まっていくのはとても心地よいもので、そしてとても安心する。

3ヶ月なにをしていただろう。

仕事には少し慣れて、月曜〜金曜の5日間を朝から働くということには未だ慣れていない。

みんなこんなにしんどいことをずっと続けてきていたんだなあ、と改めて周りのサラリーマンたちを尊敬した。

起きている時間が長くなったせいか、体重が4kgも増えてしまった。

どんどん消え失せて困っている性欲が、見せたくない身体になったことでさらに無くなっていく。

寂しいのかもしれない、と書いていたのは3ヶ月前のわたしだが、いまのわたしはこれっぽっちも寂しくない。

あれだけハマって取り憑かれたように読んでいた本は同じ著者の新刊を買ってもページを開けないままでいる。

映画を観るでもなく、音楽に傾倒するでもなく、
ただただ時間を無為に過ごしているわたしは全く孤独というものを感じない。

そういえば冷蔵庫が壊れて、いいタイミングだ、と部屋のものをさまざま捨てた。

見なくなったテレビ、壊れたモニター、ソファとローテーブルを冷蔵庫と一緒に不用品回収に出し、しばらくはなんにもない部屋で過ごした。

いまもテーブルはないままで、作業用デスクのおかげでわりと不便はしていない。

自分を変えたいのか身近な環境を変えたいのか、とにかくわたしは以前のわたしから脱皮をしたいらしい。

こうやってものを書くのもとかく久しぶりだ。

仕事を編集に切り替えたのはいい判断だった。ゼロからテキストを書くライティング作業が、どうにも億劫で、今のわたしには綴りたいテキストがまるで浮かんでこない。

このテキストもなんとなく指が勝手にスマホの文字キーを押しているだけで、頭で考えて書いているわけではない。


3年ぶりにハイヒールを履き、知人のお祝いに向かう途中のコーヒーブレイク。

パーティー用の小さいバッグには文庫本なんて入らない。


思いついてなにかしら記録を、と思ったのに、気づけば指が動くままに文字を打ち込むだけの無意な時間になっている。

まあ、それはそれでこれも記録。

先回りしてこちらから誘われにいく

絵文字を文末につけておくのも忘れない。相手の気持ちを気持ちをどれほど先に読み取れるか、何を欲しがっているか、その言葉を今言ってあげるのか、焦らして待たせるのか、そんな勘繰りばかりで日々を渡ってきた。

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4年ぶりくらいに会社員に復帰した。

ボーナスも福利厚生もしっかりあって年収600万円の企業を断って、ボーナスもなく社会保険しかない年収360万円の企業を選んだ。


理由は色々あるのだけど、結局わたしは内実よりも見栄を取ってしまう人間なんだろう。


年度末に失ったものや、メルカリで断捨離されていったお洋服や靴たち。その隙間に新たに仕事というものが入った。


どんな生活になっていくだろう、これから。


最近は少しだけ小説を読む時間が増えた。学生時分のごとく恋愛小説ばかり読んでいる。


いま読み進めている小説のお気に入りの一節を持ってきた。先回りしてこちらから誘われにいく。紳士だな、と思った。


他の著書も読もう、と思ったのは『白い薔薇の淵まで』だ。女性同士の恋愛小説を読んだのは初めてだ。

不思議だった。

官能小説ばりの嫉妬も肉欲も愛憎も詰め込まれているのに、不快感も不潔感もなく、ただただその想いの深さに頭が下がる思いだった。


読破して間もない頃にたまたまお酒の席である女の子に出会ったのだけど、なぜだかとても惹かれて恋心を抱きそうになったくらいには影響を受けた。


いまこれを書いていてふと思ったのだけど、わたしはいま寂しいのかもしれない。投影するとは誰かの人生を借りて誰かに愛されたり誰かを愛したりを疑似体験しているのかもしれない。


そういえばタトゥーも増えた。
また入れたいモチーフもできてしまったのだけど、それは結構高額になりそうだからしばらく我慢。

そろそろ入れる場所が少なくなってきてしまった。何にも入っていないまっさらな身体を美しいと思う気持ちもあるので、表から見るわたしは未だにまっさらだったりする。となると、残りは腰あたりしかない。でもタトゥーはアイデンティティでありファッションでもあるので見えるところに入れたい気持ちもある。


今回増えたのは足首とうなじ。
足首は今まで入れた中で1番痛かった。だからかどうかは分からないが1番気に入っている。

入れたのは蛇。

ギリシャ神話における蛇は医療・医術の象徴とされ、WHOのシンボルマークにもなっているらしい。

干支においては探究心と情熱の象徴であり、インドにおいては生命力の象徴で交尾を通して発せられるエネルギーが生命を創り出すということで命やセックスシンボルでもある。

そのエネルギーを足下に宿して、これから力強く歩いていけるように。




社会人10年目らしい。よくぞ10年生きてきた。

thanks for comming! see you.